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かいせつ | |
1988年夏、勝新太郎は映画『座頭市』製作発表記者会見を行った。「“時代劇の座頭市”が現代の東京にふらりと現れたとき、それもイーグルスの曲にのって。そんな出来心がこの映画の発端だよ」 昭和の終焉から平成の幕開け、時代の変革期に勝新太郎はそのキャリア、才能、精神の全てを叩き込むようにしてこの映画につぎ込んだ。
1989年2月、公開日の2月4日を間近にしてぎりぎりまで編集
1954年、スター候補生として大映京都撮影所に入社した勝は会社から期待された二枚目路線に低迷、各地の館主から敬遠され、企画会議においても「白黒フィルムで撮れ(カラーフィルムは高価である)」と社内でも見放されるような存在だった。しかし1961年、日本初ともいえるピカレスク・ヒーローを描いた「不知火検校」で得たリアルな演技への感触が彼を目覚めさせた。盲目の悪漢が人間の欲望や悪といった闇に光をあてるという反理想主義は自然な形で「座頭市」の魂につながった。 勝新太郎は当初、この作品によって“座頭市の死”を構想したという。映画産業や芸能界、社会の動きやモラル。そんなしがらみの中ですら365日・24時間映画と演技を考えぬき、その芸の美学を実践してきた男の最期の夢。それがこの1989年版「座頭市」なのだ。
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STORY | |
牢からようやく赦免になった市は疲れた体を癒すために馴染みの老侠客、儀助(三木のり平)を訪ねた。 |
みどころ | |
「座頭市」こそは日本映画最高の人材と資金を擁して製作された未来への贈り物。 直接製作費13億円、準備期間120日、撮影日数136日、出演者(エキストラ含む)1800人、使用フィルム15万ft(30時間以上)・・・・。広島県「みろくの里」に3億円の宿場町のオープンセットを建設、八州の登場や五右衛門と赤兵衛らの大抗争のシーンはここで撮影された。また儀助の家は秋田県の海辺で撮影された。東京調布のにっかつ撮影所などではセット撮影が行われた。キャストとスタッフにはさすが“勝組”といえる顔ぶれが揃い、持てる個性と技術が発揮された。演出においての勝新太郎は、各キャラクターの台詞、所作、表情を完璧に自分の中で再生させ、役をキャストとスタッフに理解させるといった手法をとる。ベテラン緒形の哀愁、樋口の色気、陣内のスピード感、奥村雄大の殺気、台本の奥深いところから勝がそれぞれに細かく人格を設定していくのだ。また台本が現場で書き直される事も多いのが“勝組”の特徴。ベテランによる手堅い画面づくりの中にも、その場のインスピレーションを生かしたリアルさが存在するのはそのせいだろう。5〜60年代黄金期に培われ、世界に誇る伝統的映画づくりの技術と勝のねばりが昭和と平成のはざまに奇跡的に結晶した。 |
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