『座頭市』ひとくちメモ

時代背景と用語 解説

 

■関八州(かんはっしゅう)

座頭市は産まれ故郷を「笠間」(茨城県、水戸市より西に20キロ)としており、シリーズを通して主に
「関八州」をその舞台としている。現在の東京、神奈川、埼玉、千葉、茨木、栃木、群馬にあたりエリ
アで江戸時代における武蔵、相模、上野、下野、常陸、上総、下総、安房の総称。
したがって冒頭の儀助の家は房総の海の傍か。

 

■八州取締役(はっしゅう とりしまりやく)
陣内孝則が狂気をはらんだ迫真の演技で圧倒的存在感を示したメ泣く子も黙るモ八州様とは、江戸幕府の職
名。勘定奉行の支配下にあって正式には関東取締役出役とし、八州廻りとも呼ばれた。
八〇五年(文化5)に設置され、警備体制の弱体化した関東一円(水戸領を除く)を巡回し、治安維持と
商業統制を管轄した。
現在で言うところの県知事と県警警察署長を兼ねていたとされる「代官」の内、関東の四代官が、勘定奉
行からの命令により自分の部下から各二名づつを選出し、八名のチームでパトロールさせていた。
彼らは御領、私領、寺社領に拘わらず捜査する権利が与えられており、恐れられた。

 

■小判(こばん)
江戸時代、貨幣が全国的に統一され、金座、銀座、銭座において金・銀・銭貨の三貨が鋳造され、幕府は
これを全国通用の正貨とした。金貨には大判(十両)、五両判、小判(一両)の三種類がある。なかでも
いちばんポピュラーなのが小判。一両は現在の貨幣価値に換算すると2〜30万円の価値があると推定。た
だし長い江戸時代の時期によっても違い、換算の方法も労賃から求めるのか、日用品から求めるかなどで
諸説ある。

 
■居合い(いあい)
剣道の一派。腰に挿した刀を抜き放すと同時に敵を斬り倒す技。元亀〜天正(1570年代・戦国時代)の
頃、林崎重信の林崎流に始まるという。
「いつ抜いたか、 いつ斬ったか鍔鳴りと共に真っ二つ、目にも留まらぬ居合い斬り」と宣伝コピーに示
されるとおり、座頭市の逆手斬りは0.何秒、必殺の居合い斬りである。火が付いたまま刃先に乗る蝋燭で
相手の顔を照らしたかと思うと、フッと吹き消し市は言う。「暗闇なら五分と五分だ。見当つけて斬って
来な!」
 
■牢・溜・寄場(ろう たまり よせば)
江戸時代、犯罪容疑者は町の「自身番」から茅場町・材木町など江戸に七ケ所あった「大番屋」(現在の
警察留置所)に送られ、
例外として重病人で比較的刑の軽い者は浅草と品川にある「溜」預けとなることもあった。
江戸時代にはもうひとつ「人足寄場」という厚生施設があり、これは現在でいう刑務所のシステムで、木
工などの手工業を教育してその製品を売ったり、精神修養させて改悛の情著しい者には積立金を渡し釈放
した。
 

■博打(ばくち)
博打は祭りに行う占いにも源があり、各地の寺社の祭日・縁日などに開帳された。また賭博(とばく)を
生活の糧とする者は信仰に因縁づけて地廻りとなり子分・身内を養い、地域住民の養護・便宜にあたると
いう触れ込みで「侠客(きょうかく)」となり、さらに利潤を目当てに「胴元(どうもと)」となった。
一六一五年(慶長二十)武家諸法度が交付され正式に禁じられるが効果はあまり無く、中期以後、領地が
入り組んで警察力の弱い関東地方や、商業・漁業(農民より漁民の間で流行した)の盛んな地方ではその
取り締まりには苦労した。しかし賭博に対する罪は重く流罪(島流し)、死罪など適用されることも珍し
くなかった。まさに市は「御法度の裏街道」を歩く身である。

 

■賽子(サイコロ)賭博
時代劇、ヤクザ映画でお馴染みの賭博はやはりサイコロ賭博。丁半博打などとも呼ばれる即断即決の単純
にして奥深いゲーム。
つぼの中の二つのサイコロの出た数字を合算して偶数なら「丁」奇数なら「半」。(数が偶数なら丁度割
り切れるので「丁」,奇数なら半端だから「半」)。一か八かは丁か半かの意味(丁の字を書くときの第
一画は「一」で,半の字のはじめの二画は「八」と書く。
座頭市が賽子をわざと壷の外に放り、ここぞとばかりにその出目に賭ける目明き衆が、一泡吹く事になる
のは第一作からのお約束エピソード。

 

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